昭和58年度1次隊・フィリピン・理数科教師

 ▼ 協力隊に参加するまで・・・
 某私立大学大学院工学研究科で
「ミミズによる下水汚泥の処理処分」に関する研究をする傍ら、交野市の学習塾で非常勤講師をされていた鷲田さん。年の明けたある日、受験を間近にする中3生のお父さんが塾に相談に来られたそうです。
「先生だったら勉強する気になるというので、受験までぜひ家庭教師をしてください。」
と、大の大人が鷲田さんに額を床につけて土下座するのを目の当たりにし、教育は人の人生を左右する責任のあるやりがいのある仕事だと思い、学習塾を開くことを決意されたそうです。

▼ 協力隊に参加した動機〜鷲田さんより〜
 子供の目から見て魅力のある人間になりたい、面白いいろいろな体験を積んで子供たちに話したい、という思いが協力隊志望の動機です。専門の土木職で受験したのですが、実務経験の問題に変更され、落ちてしまいましたが、翌年、無事に理数科教師として採用されました。
 しかし、この失敗の1年は、JC青年の船に乗ったり、 毛沢東思想や西田哲学を勉強したり、お茶を習ったり、 100万円を貯金したり等、実りの多い年でした。
 週に1度、パン工場に行き、50円でパンの耳を一袋を買って生活していたのですが、あるとき、そこのおばちゃんが「兄ちゃん、これ持って行き。」と言って、70円のアンパンをくれたのです。50円を持っていって、70円のパンがもらえる、これが今の日本なんだ、日本では絶対に飢え死にしない、生きて死ぬまでの自分の人生、本当に満足できる人生を歩もうと思いました。

▼ 隊員時代の活動とその後の交流〜鷲田さんより〜
 83年7月にマニラに到着、約1ヶ月後に大統領候補ベニグノ・アキノが空港で射殺されました。
その後、あの政変へと繋がっていきました。
・活動その1:マニラにあるフィリピン教育大学にて数学指導のお手伝い
・活動その2:「2年間で異文化の中に真の友人はできるのか?」に挑戦⇒ できました。
・活動その3:戦争の傷跡の検証⇒ 未だにフィリピン人の心の奥に深く刻まれている。

▼ 帰国後あれこれ〜鷲田さんより〜
`86.2 月:親友ができたので、縁を切りたくなかったことと、商売の経験をしたかったので、マニラに日本料理店をオープン。
      その時、People’s Power を目撃。
`86.5 月:受験テクニックをマスターするために、新聞広告を見て大手進学塾に就職。
`89.4 月:昔通っていた少林寺拳法の道場の保護者たちが、場所の選定と生徒集めをしてくれたので、念願のだるま塾を開設。

▼そして今・・・
 鷲田さんは現在、『人生、七転び八起き』をモットーに、幸せになるための教育、徳を身につける教育、そして、感動ものの映画を見せて感性を刺激する教育を実践されています。その他に、アムネスティ・インタナショナルなにわグループ運営担当、またワン・ワールド・フェスティバル実行委員としても活動されています。
 そんな鷲田さんより最後に一言!
「夢を持とう! 今、一人ではできなくても、夢を持とう!いつの日にか、多くの人の協力で実現する可能性があるのだから」

※ 写真上「フィリピン教育大学にて高校生に数学を教えているところ」
    下「現在の鷲田さん:だるま塾の子供たちと夏合宿にて」

(文責:富岡)